「医者に行かずに8年が経った理由
布団に入っても延々と眠れず、うとうとしかけるのは夜が明ける頃。そして3,4時間の浅い眠りのあと目が覚める。不眠を感じて8年余り、「世の中に寝るほど楽はなかりけり」の境地から見放された私はなんとかしなければと「快眠」と名がつく本を貪り読んだり、あちこちのリラクセーション施設を訪ね歩いたりした。
しかし、目立った効果は得られず、慢性化した睡眠不足は次第に昼間の生活を蝕んでいった。
当時の私は肩こりやめまい、吐き気や頭痛などが繰り返される日々のなかで、気休め半分、バッグのなかにさまざまな市販薬を入れて持ち歩くようになり、そんな私のことを友人たちは「歩く保健室」と呼んだ。
不眠を自覚しながら8年も医者に行かなかったのにはいくつか理由がある。眠れない自分を認めたくなかったこと、いつか治るのではないかと思ったこと、そして昼夜逆転という安眠に大敵な生活を続けてきたフリーランス稼業ゆえ、医者はちょっとばかり敷居が高かったこと。
あとになってそのどれもが的外れだったことを痛感するが、もし、読者の方々のなかに不眠に悩みながら似たような理由で医師の受診をためらっているひとがいるとしたら、「ものは試しに」ぐらいの気楽さで医者に行ってみてはどうだろう。不眠の治療は心療内科や精神科、神経科で行われるほか、最近では「睡眠外来」などの専門外来もあり、インターネットの普及で病院や医院の情報は以前より格段に手に入れやすくなっている。
そういえば、数年前、フランスの民間企業が日本を含む10カ国を対象に行った睡眠調査で、不眠解消の対処法を尋ねたところ、「医師を受診する」と答えた割合は10カ国中、日本が最下位だったそうだ。
医者の門をはじめてくぐった日
私が通うことにしたのは当時の住まいから徒歩15分ほどの場所にある心療内科だった。はじめて医者の門をくぐった日のことは今でも鮮明に覚えている。自分の名前が呼ばれ、恐る恐る診察室に入った私の目の前に飄々とした雰囲気の30代ぐらいの男性医師がいた。
私が長年の不眠の経緯や症状を説明すると、医師は軽くうなずいて、「何時間も寝つけないなんて大変だ。3、4時間しか眠れないんじゃ足りないですよね」と返した。その口調は実に淡々としたものだったが、それが却って私の気を楽にさせた。
そして、「不摂生ばかりの昼夜逆転の生活が睡眠に悪いことはわかっているんですけど」と先回りした私に向かって、「集中して仕事できるのは夜なんでしょ。だったら仕方がないですよ」とあっさり……。
「偏った生活パターンを非難されたらどうしようと内心ビクビクしていた私は安堵した。考えてみれば、世間には夜型にならざるを得ない夜間勤務や交代勤務のひとも少なくない。
「夜型でもいいから寝る時間を一定にできればね。それが無理でも、集中して仕事するとき2時間に1回程度、緊張をほぐすようにできたらいい。まず薬で睡眠を確保して、それから自律訓練という方法で緊張をとく練習をしていきましょう」 私は思わず「ハイ!先生」と元気に返していた。
医師も患者も互いに人間、相性が合う、合わないがあるだろうけど、私の通院初日の印象は上々、早くも眠りの入り口に立ったような気持ちになった。だが、予想外の展開が待ち受けていた。
薬はこわい?
不眠症の対処療法としては薬物療法が一般的なようだ。睡眠薬や抗不安薬というと、中毒や依存性がつきまとったかつての危険なイメージの名残からか、やみくもに恐がるひとがいるが、現在、医師から処方されるのはかつての睡眠薬とは異なるベンゾジアゼピン系という薬が中心で、耐性や依存が生じにくく副作用も軽減された安全な薬といわれている。
この種の薬は鎮静・催眠作用、抗不安作用、筋弛緩作用、抗けいれん作用があって、その特性からあるものは睡眠薬として、あるものは抗不安薬として用いられる。そして、睡眠薬として使われる薬はその作用時間によって患者の不眠症状に合うものが選択される。私の場合、緊張を解くための抗不安薬と入眠障害に適した睡眠薬の両方が処方された。
私には薬に対する不安は全くなかった。
しかし、否定的な思いがない代わりにそれとは正反対の、いわば薬に対する過剰な期待-たとえば、英語で熟睡のことを「Sleep like a log」というが、私は医者通いと投薬によってたちまち、ログ=丸太のようにごろんと転がり快眠できると半ば信じているようなところがあった。なのに、最初に出された薬を飲んでも結果はあまり眠れずじまいだった。
効かないと医師に訴え、薬を変えてもらったら今度は眠りすぎ、倦怠感やふらつきなどの副作用にも悩まされる。再び薬を変えてもらうと、また思いどおり眠れなくなり焦りだけがつのっていく。
巷には「快眠」「安眠」に関する情報が溢れ返っているが、せっかちでこだわりの強い私の性分はとどまることを知らず、薬の効き具合に一喜一憂するというあらぬ方向へ向かってしまったのだった。
医師とのコミュニケーション
そもそも薬というものは効き具合、副作用ともに個人差があって、特にこの種の薬は飲み比べながら合う薬を探すことが一般的だという。
薬を飲んでから「さて効くかどうか」などと神経を尖らせていたら、効くものも効かないってものだ。「あなたに合う薬はあるから、そんなに焦らないでも大丈夫ですよ。どんなに安全な薬でも多少の副作用はあります。風邪薬だってそうでしょ」と医師は言った。
私のように薬の効き方に執拗にこだわるのは問題だけど、医師から薬を処方された際、やはりその薬の効き具合や体調、昼間の生活への影響などをきちんと伝えることが合う薬にたどりつく近道にはちがいない。
また、はじめて医者を受診するときには自分の不眠の症状を簡潔に説明できたらいい。不眠の苦しさを理解してもらいたいと思うあまり、症状を伝えることが後回しになってしまうと治療に時間がかかることにもなりかねないから。
その後、私は4、5日~1週間程度の間隔で医者に通い続け、行きつ戻りつしながら、だいたい1ヵ月ほどで薬が固定された。そんなある日、医師はこう続けた。
「たとえば、夜の眠りが足りないのなら昼寝で寝不足を埋め合わせてもいいですよ。睡眠というのは一日の合算で考えればいい。ひとそれぞれの眠り方でいいんですから」
ひとぞれぞれの眠り方か。私の眠り、私なりの眠りってなんだろう……。
- [医療監修]
- 滋賀医科大学 名誉教授 山田 尚登 先生